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ハルゼーの勲章

「やる夫は日本で働くようです」では、ただの日本嫌いのキレた人物という扱いでしか出てこなかったので、ハルゼー提督のいい話を。

1934年当時、アメリカ海軍では、海軍航空基地指令、水上機母艦艦長および空母艦長は認定された航空士でなければならないと議会の法律にによって定められていた。そのため、これらの職に就く者は「オブザーバー課程」に入ることが定められていた。
それは、空母サラトガの艦長を薦められた、当時51歳のウィリアム・ハルゼーも例外ではなかった。

しかもこの「オブザーバー課程」はエンジン、無線、航空航法、射撃、雷撃、離陸、着陸、それに航空戦術――単独飛行を除くあらゆるもの――などの激しい訓練を数ヶ月要求するものだった。

1934年7月1日。ハルゼーは半日は陸上、そして半日は空中という訓練を始めたが、すぐにオブザーバー課程から正規のパイロット課程に入る必要があることを確信した。
彼はオブザーバーという立場だけでなく、パイロットの問題や精神的な変化を十分に理解する必要があると考えたからだ。さらにパイロットが戦死したり負傷した場合、各処置を取れるようにしたかったのだ。

しかしハルゼー大佐は、パイロット過程に移って自分より30以上違う若者たちと競い合うようになっても、特別な要求もせず、配慮もすべて断った。
教官がハルゼーの乗機にパラシュートを運ぼうとしたときも断り、他の学生と同じように自分でパラシュートを運んだ。
また、パイロット学生は最初に教官と8時間から12時間の同乗飛行を終えた後、最初の単独飛行に挑戦することができた。ペンサコラの基地では最後の単独飛行者は衣服を着たまま海に投げ込まれるという習慣があったが、この時の最後の生徒はまさにハルゼーだった。
飛行を終えた白髪混じりの大佐を、まわりの少尉の若い士官たちは遠巻きに眺め手を掛けることを躊躇っていたが、ハルゼーはニヤリと笑うと、自ら「習慣に従うぜ」と海に飛び込んだ。

学生パイロット達は時々着陸を失敗して滑走路を外れる。そんな生徒には「間抜け飛行記章」をつける慣わしになっていた。この記章をつけられると、次の失敗者がでるまでその生徒は、24時間この記章をつけることが義務付けられていた。
ハルゼーもこの記章をつける事になったが、次の失敗者が出たとき、彼は記章を渡すことを拒んだ。
この時、ハルゼーはこう言ったという。
「渡さないぜ。俺はこいつをずっと持っていたいんだ。ここではもうつけやしないが、『サラトガ』で指揮をとったときに、こいつを私室の壁に吊るすつもりだ。もし乗務員の誰かが何かへまをしでかした場合、そいつを怒鳴りつける前に、この間抜け飛行記章を一瞥して、こう言うつもりだ『ちょっと待て、ビル・ハルゼー! お前さんだって酷かったんじゃないか!』ってね」

こういう話を聞くとハルゼーって源田実と似てるけど、周囲に対する接し方は真反対の指揮官だよなぁ……と思ったり。

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