JFKの病


「兄さんに処方されている薬……この正体を突き止めなければ」

「お任せください。我々FBIの研究所にかかれば一発です」




数日後――




「うふふふ。ばっちり判明しました」

「それで、正体は何だったの」

「それは……」




アメリカ合衆国 ホワイトハウス




「大統領!直ちに、この薬の服用を止めてくださいッ!」

「司法長官、どうした? この薬のおかげで持病の背痛が楽になっているのは知っているだろう」

「これは薬なんかじゃない。ただの覚せい剤です!

「……ロバート、健康なお前には関係のないことだ」

「兄さん!」

「これを打てば気分が良くなる。私には、これが必要なんだ……」






 若きアメリカの象徴として活躍したジョン・F・ケネディ。一般的に知られるイメージとは違い、彼の人生は幼い頃から病との戦いの連続だった。
 弟のロバートも、

「兄さんの血を吸ったら、蚊だって病気になるよ」

 と冗談を言っていたと回想している。
 しかし父親は、

「父さん。僕、体の調子が……」

「我がケネディ家の男が情けない。何に対しても一番であれ。他の子供に負けることは許さん」

「はい。分かり……ました」

 こうして育てられた彼は、不自然なまでに健康であることを強調するようになる。
 それは、16歳の時に検査入院した病院から、友人に送った手紙にも現れている。

「入院先で、数人の看護婦相手とヤっちゃったよ」

 この手紙も、『自分がパワフルな若者である』、という事を証明しようとした作り話であるとも言われている。しかし、彼が十代の頃から性病に悩まされていたのも、また事実である。






 1947年。イギリスを訪れていたケネディは、激しい嘔吐によって衰弱し、意識不明の重体に陥っていた。

「ううう(苦」

 ケネディとチャーチルに交流があったことから、すぐさまチャーチルの主治医が診察に訪れた。
 診断の結果は、

「アジソン病によって、副腎の機能が低下しています。はっきり言いましょう、長くはありません

 というものだった。

 アジソン病は副腎の機能が低下して発症する病気で、現代でも難病とされている。ストレスから身体を守るコルチゾールというホルモンが不足し、場合によってはストレスによってショックを起こし、急性副腎不全に陥ることもある。 






 そんな彼を病から救ったのは、ある新薬だった。
 それは、ヒドロコルチゾン。もちろん、医師の指導の下で適量が用いられる場合には、何の問題もない。そして当時も、この薬の服用は医師の指示のもと行われていた。
 しかし――、

「これが今月の分です。くれぐれも過剰摂取には気をつけてください」

「ありがとうございます」

「これが今月の分です。くれぐれも過剰摂取には気をつけてください」

「ありがとうございます」

「これが今月の分です。くれぐれも過剰摂取には気をつけてください」

「ありがとうございます」


…………


「よし。これで今月はやっていけるな」

 ケネディは3人の主治医を持ち、しかもその3人の医師は互いの存在を知らなかった。今となってはどれだけの量を服用していたかは不明だが、少なくとも通常処方される量の3倍のヒドロコルチゾンを手にしていた。
 ヒドロコルチゾンは短期的に症状の改善が自覚でき、そのため大量摂取になりがちである。ヒドロコルチゾンは一種の躁状態をもたらし、それがさらに過剰摂取を促した。大統領選挙における、選挙期間中の10万キロの移動、20時間の選挙運動という無謀とも思える活動は、大量のヒドロコルチゾンによって支えられていた。






 しかし、その副作用は確実に彼の身体に現れていた。その一つである強い性衝動を示すエピソードは、大統領就任式にも見られる。

「大統領。この後は7分の休憩です」

「それじゃあ、ちょっと部屋で休んでくるよ」

「はい」

「さて、と」

「はーい。大統領、女優の私なんか呼んでどうしたの?」

「一発、ヤらせろ

「にゃ?」

「時間が無い。苦情はヤった後で言ってくれ」

合体

「大統領、時間です」

「ああ。行こうか」

「私はそのまま放置かにゃー!」




 ケネディには、アジソン病の他にもう一つの病を抱えていた。それは背痛である。これは、彼の足の左右の長さが微妙に異なっていたことから起こるものだった。鎮痛剤による治療に我慢の出来なくなったケネディは、様々な薬に手を出す中で、ある医者の訪問を受ける。




「大統領。この薬などいかがでしょうか?」

「君は?」

「私は、マックス・ジェイコプソン。アンディ・ウォーホルなどの主治医を手がけております」

「そうか。いいだろう、試してみよう」

「では……」

「ッ!! これは凄い。痛みが無くなった。しかも、活力も出てくる。今後ともよろしく頼むよ」

「はい」

 ページの最初にあるケネディとロバートのやり取りは、この後のものである。マックス・ジェイコプソンは、巧みな話術とその治療によって評価を得ていた。しかしロバートが調査したとおり、治療とは彼の投与する覚醒剤のアンフェタミノンによってなされていた。
 この時既に薬物中毒となり、アンフェタミノンを手放せない状態になっていたケネディは、その後もジェイコプソンに頼りつづけた。ケネディの場合に問題だったのは、これまでに大量に服用していたヒドロコルチゾンと、ジェイコプソンから処方されるアンフェタミノンの併用によって薬効が高まり、異常な程にテンションが上がってしまうことだった。






 このことは、大統領の警備にも影響を及ぼし始めていた。

「群集を前にした演説。何処に危害を加える者がいるか分からない。大統領には事前の打ち合わせどおり群集から離れて――」

「大統領ーーーー(声援」

「みんなありがとう!記念に握手をしよう」

「大統領ーーーー(悲鳴」

 また、ある時は――、

「ホテルのワンフロアを借り切っているとはいえ、油断は出来ない。ネコの子一匹通さないようにしなければ」

「大統領に会いに来たにゃー」

「お前みたいなあばずれ女優に、大統領が会う筈が無いだろう。警備の邪魔だ!直ぐに帰れ」

「何言ってるのよ。大統領から、ちゃーんと許可だって貰ってるんだから」

「た、確かに……しかし……」

「あ、よく来てくれたね。それじゃあ、私の部屋に」

「おー。朝までヤるにゃー」

「だ、大統領ーーーー(悲鳴」

 SP達もケネディの行動に悩まされ、彼を命がけで護衛することに疑問を持ちつつあった。






 薬物による副作用が決定的になったのは、それが国家安全保障にまで及んだ時だった。
 1962年、ソビエトのキューバへの核ミサイル設置。これに対して、ケネディの取った行動は無謀ともいえるものだった。ソビエトとの高官レベルでの交渉をまったく行わず、ミサイル発見の事実も隠しつづけたのだ。
 彼はソビエトの最高権力者であるフルチショフに対して、最初の意志表示をテレビ演説を通じて行った。

「我々は全面核戦争を望むものではない。だが、必要とあらば開戦も辞さない覚悟だ

 ケネディはフルチショフに対して、一方的に開戦か撤退かを迫ったのだ。
 この時、ケネディは何度もジェイコプソンからアンフェタミンの投与を受けていた。アメリカの核ボタンは、一人の薬物中毒患者の手に握られていたのだ。
 10月27日16時。大統領と統合作戦本部は、キューバ攻撃で意見を一致。攻撃は36時間以内と決定された。
 不可避と思われた米ソ全面核戦争だったが、ある顧問の一言が、大統領の理性を呼び戻した。

「大統領。全面核戦争は、彼方の本心ではないはずです。目を覚ましてください

「……ロバート。ソ連大使館を通じて交渉をしてくれないか」

「はい」

 兄の命令を受けたロバートは、すぐさま水面下で駐米ソビエト大使と交渉を開始した。

「全面核戦争は、ソビエトも望んではいないはず。キューバへの核ミサイル配備を再考願いたい」

「我が国も全面核戦争を望んでいるわけではない。しかし、我が国のみが譲歩するわけにはいかない」

「もしキューバのミサイルを撤去して貰えるのなら、我が国がトルコに設置しているミサイルを撤去しましょう」

「なるほど、悪くない取引だ。いいだろう、貴国の提案に応じよう」

 国民にはアメリカの一方的勝利と映ったこの事件は、実際には双方の妥協による勝者無き戦いだった。






 ケネディの薬物の過剰摂取による副作用は、既に隠せない状態になっていた。彼は焦り、そして常に死を予感していた。
 だが、死は彼の予想だにしなかった形であらわれた。
 それは運命の日、1963年11月22日の金曜日。

「……」

「!?」

 オズワルドによって放たれたとされる凶弾は、一発目はケネディの咽を貫通。彼は身体を固定する装具を背中付けていたために倒れる事がなく、直立の姿勢を保ったままだった。そのため二発目の弾丸を頭に受けることとなり、これが致命傷となった。






 「ケネディがこの事件で命を落とさなかったとしても、2期目を勤めることは無理であったろう」、と言われている。それが健康不安によるものか、女性のスキャンダルによるものか。原因は別として、そうなった時に、彼に後世の人々が抱く印象はまた違ったものになったであろう。
 確かにケネディは病に悩まされ、薬に頼り、また副作用に悩まされた。これだけの犠牲を払って彼が求めたのは健康であること、年齢相応の身体を手に入れたいというささやかなものであった。


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